痛快な物語を書こう。
どういうことだろうか。
世の中の不満に思っていること、
おかしなことを、
豪快な方式で解決すること、ではないだろうか。
細かいことはどうでもよくて、
大体豪胆で強引な方式で解決したほうが、
より面白くなると思う。
痛快な物語が少なくなったのは、
世の中が複雑になり、
そんなにシンプルな解決法がなくなったからかもしれない。
あるいは、世の中の進化速度が落ちてきて、
一気に解決できることが少なくなってきたこととも関係しているかもしれない。
あるいは、
コンプライアンスを気にし過ぎて、
「豪快な解決」「強引だが爽快な解決」が、
難しくなってきていることと関係しているかもしれない。
いずれにせよ、
世の中は痛快を求めなくなったわけではなくて、
物語を提供する側が、
痛快を提供しづらくなっているだけのことだ。
需要があるのに供給はないのだ。
だから、トランプやイーロンみたいな、
「現実を強引に解決しようとする人」が、
痛快業界を引っ張ることになるんだろう。
ホリエモンもかつてはそこにいたねえ。
ひろゆきも口先だけはそこにいた。
田中角栄ってそういう感じだったのかな。
僕はリアルタイムでは子供だったので、
よく分っていない。
車田正美や藤子不二雄が、
痛快にものごとを(フィクションの中で)解決していたのは、
僕は好きだった。
いま「痛快!」とか言わないよね。
最後に聞いたのは怪物くん?
最近痛快を感じたのは、
やはり「RRR」だなー。
あの悪役は悪かった。
その倒し方も、残酷であればあるほどよかった。
痛快とはああいうことをいうのだなあ、
と久しぶりに思い出したよ。
理不尽を、豪胆に解決すること。
それはどんな世でも望まれるおはなしではないだろうか。
もし現実でコンプライアンスがー、
とかいうならば、
SFとか時代劇とか、
現代でない文脈にしてしまえばいい。
いっとき80年代ものが流行ったときは、
それを求めていたのだな。
スマホが細かい監視社会をつくってしまったんだろうなー。
松本伊代が線路で写真を撮って大問題になったことがもはや懐かしい。
ネット監視社会じゃなかったら、
「いい写真じゃん」ってなってたはずなのに。
こういう息苦しさを取るなら、
別の世界、別の文脈にするに限る。
しかしそれをやるには予算が少なく、
現実世界で撮れる絵しか撮れない。
つまり現実のルールに引っ張られてしまう。
難しい時代だのう。
最後のファンタジー、恋愛すら、
フェミさんによって、たいしたことないと暴露されてしまった。
痛快な物語を書こう。
それは求められている。
しかしどうやって?
それは誰にも分らない。
だからあなたが書くしかない。
2026年06月15日
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