2026年05月08日

【薙刀式】視点はどこにいるか

ラクダエンさん:
> 大岡さんって自分をフラットキャラクターとして記事書いてない?

何を書くかにもよるけど、
こうしたブログのような分析中心のものは、
自分は客観的であろうとするのでフラットキャラクターだなー。



これはプロとしての訓練もあるけど、
プロの作品としてなら、
徹底的に個人であるところと、
徹底的に客観であるところを往復する。
芯と周辺というか、
両方を成立させないとメジャーなものはつくれないというか。

物語文、企画書なんかはそんな感じ。


じゃあ自分はどこにいるんだろうと考えると、
やっぱいろんなところに視点を動かし続けてて、
「自分」はいないなー。
私は千の風になっています的な。
いたとしても行司みたいな、
別の空間にいる人みたいな感じか。

そもそも自分の中から言葉をひりだすときは、
絵で会話しえないから、
会話を成立させるために、
共通言語である言葉を操作してどうこうしようとしてる時が多いな。

ということは、
自分の言葉で自分のために何かを書いてないまである?
日記とかプライベートなものなら、
あんま気にせず書いてるかもだけど、
それはあんまり外に出すものじゃない感覚。
だからTwitterもたぶんやらない。

大阪人というのもあって、
私はピエロになるべきだと考えているのだろう。
つまり登場人物に影響を与えないトリックスターか。


なので文章そのものは自分に影響を与えないかもなー。
変容が起こり終わってから、書くのではないかしら。

ただそれを言語でなんというかを、
とっさに捉えないと消えちゃうから、
そこで四苦八苦してるんじゃないかしら。

とくにこのブログ文なんて、
よし、書けるわと思ってタイトル書いたら、
ほとんど自動書記みたいに書いてるしなー。

読み直して直す時もあれば、
そのまま書いて出しみたいなこともある。

そういう意味ではすでに変化の終わった人として、
正しく吐き出すことを注意してるのかもなー。

もちろん全部が見えてるわけではない。
まあ、行けるやろと思えた時しか書かないし。



「自分そのもの」はどこにいるかな?
やっぱセリフかな。
だからいろんな人の中に入った視点で書くんじゃないかしら。
ブログ文にはセリフないから、
フラットキャラクターになるのかもね。

小説の地の文が自分で上手くないと思うのは、
どこまでいってもト書き(セリフじゃないところ)的で、
フラットになっちゃうからじゃないかなー。
そこに自分を出していければ、小説はうまくなるんかな。
posted by おおおかとしひこ at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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