ラクダエンさん:
> 千の風は内面化された「外的な裁定者」だろうから、本来的な自我に近いのは「書き手」の方、って理屈になるんだけど、千の風が主人格で「書き手」が副人格みたいな書き方だな。
https://x.com/catfist/status/2052691992900248037?s=20
うーんわからん。
全部自分から別れたものがたくさん、
同時進行してる感覚。
ペンを持ってる人が司会の人かな。
色々なキャラクター勝手にワイワイ言ってて、
それを俯瞰してる千の風がいて、
お客さんや評論家もいて、
俺個人の人格もどこかにいるんじゃないかしら。
好みの味つけだけは要求したりして。
自分はどこにいますか?といわれたら、
「遍く」としかいいようがない……
キャラたちは、この先起こる事がわからなくて、
反射神経やその人なりの計画で動いてる。
(だから全体を分かったセリフを言うわけではない)
自分の性格のA部分だけ取り出して、
別の性格と融合させているので、
半分自分だけど半分他人。
別の人は自分のBの部分、
あるいは自分のCの部分と逆の部分を持たせている、
などしているので、
全員自分であるが自分ではない。
千の風の自分もいて、
書く役割としての自分もいて、
観客としての自分もいて、
でも地の文担当者はいないね。
舞台の上の話だからね。
こんな感じかしら。
これらの同時進行、絡み合いをやらなきゃいけないときに、
キーボードや漢字変換とかやってる余裕はないよね。
どんだけ負荷を下げてもペンの方が負荷が低い気がする。
だって正しく打ててるかチェックする人を、
新しく自分の中から分裂させなきゃいけなくて、
それって結構な負担になると思う。
だから僕は一次原稿はキーボードを使わないんじゃないかしら。
物語文はそうだけど、
解説文は人格ひとりでいいから楽だよな。
反論する人格とかは何人かいるから、
そこと会話すればいいだけだしなー。
2026年05月09日
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