2026年07月06日

絵から映画になるまで

僕は昔絵師から物語を始めて現在に来たので、
絵と映画の違いを良く分っているつもりだ。

絵と物語は違う。
時間軸がないか、あるかだ。

もっと詳しく解説することも出来るので、
一度試みてみようと思った。


絵はなんでも描いていい。
好きなものを描くといい。
風景、人物、猫、もの。
この世に存在しないものでもいい。
絵の物理サイズも自由だし、
そこに捉えられているものは、
アップからロングまで様々だ。

だけど絵はそれを描けばそれでおしまい。
動かない。静止している。
時間を止めたものが絵だ。

逆に絵とは、流れゆく時間を止めるために描く。
永遠にするために描く。

描かれるのは具象物であるが、
実は概念でもある。
「これはこのようなものである」というものだ。
これは真実を表してもいいし、
全部でなくて一部を絵にしてもいいし、
まったく嘘をついてもいいし、
この世に存在しない概念でも良い。

「概念」に時間はない。
つまり、「これはこのようなものである」
というものは固定的である。

実際には流動的なのだが、
絵にするということは、
「これはこのようなものである」というのを、
「ここに固定するという宣言」と同一である。

絵は変化しない。
(絵の中の人物が移動していたり、
歳を取っていくのはホラーである)

そこに描かれているもの、
「これはこのようなものである」は永遠に固定される。
その「固定」こそ絵の本質である。

だから、これはどのようなものか?
を徹底的に観察し、
これはこのように固定するべきである、
ないし、これはこのように固定すると主張したい、
ということを考えつくした結果が絵なのだ。


これからやろうとする計画を、
「絵を描く」なんてたとえることがあるが、
それはつまり、計画が完成した、
ということだね。
その計画がフィックスしたということが、
「絵が描けた」ということになるわけだ。


さて。
この固定を旨とする絵と、
物語はまるで別のものである。

別次元のものである。
なぜなら物語は動くからだ。

動かない絵は物語ではない。
ためしに映画の中でまったく静止している5分間を探してみたまえ。
そんなものはない。
停止や静止は映画の敵である。
何かしら動いてなければならない。


さて。
適当に動いてるものが、
適当に動いているだけだったら、
世界と同じだということになり、
あまり面白くない。

あまり見ない、新しい動きであると、
新しいものになる。

それはなんだろう?
奇妙な踊りだろうか?
不思議な世界の習慣だろうか?
見たことのない旨そうな料理だろうか?
それは動画になるが、
まだ映画ではない。

動画はせいぜい30分や1時間しかもたない。
テレビのバラエティ時間までだね。

人間の知識欲や好奇心が、
それくらいで飽和するからじゃないかと思う。
新しいだけ、珍しいだけのものは、
それくらいで飽きちゃうのだ。

とくに話すこともないキャバクラ嬢とは、
一時間も持たないと思う。
飽きちゃうんだよね。

酒でも飲んでたら意識が朦朧としてくるが、
普通映画は朦朧として見るものではない。
(もちろん酒を入れて朦朧としながら見る自由はある)

となると、
物語とはそれ以上の動きを与えないとつまらないということだ。

それが、
事件と解決である。


ある解決が難しそうな事件が起こり、
どうやってそれを解決するんだ?
と引き込んで、解決まで見せるのだ。

宇宙人が侵略してきた、
新しいパンデミックが広まっている、
未来から不死身のロボットが殺しに来た、
美女の転校生がやってきて恋してしまった、
なんだっていい。
「これはどうやったら解決できるのだろう?」
と、謎を振って置き、
最後にこうしました、と引っ張るのが、
事件と解決という一本の糸だ。

なまなかな解決を思いつかないものもあれば、
わりと簡単そうに見えるものまである。
少なくとも、
「それが解決したらめでたしめでたし」
という、大きな流れを描くのが物語である。


で、それだけをやればいいんだっけ?
ある事件があり、解決しました、
めでたしめでたし、までやっても、
まだ物語としては足りないのだ。
事件からの解決という一つの流れ
(メインストーリーライン)を、
つくったとしても、多分二時間持たない。

なぜなら、
「それは見る価値があるものか?」
と思いながらみんな見ているからだ。

ある興味深い事件があり、
それがいかに見事に解決したとしても、
「それは見る価値のあるものだったのだろうか?
と思いながらみんな見るものが映画だ。

それはものすごくざっくりいうと、
「自分の人生に何か役にたったか?」と関係がある。
しかし人生お得情報を求めてみんな見るわけではない。
物語は、それがおもしろそうだから見るのである。
でも最後には、
「人生とはこのようなものである」
という「絵と同じ結論」をみんな欲しがるのだ。

動く。
一つ所にとどまらない。変化する。
事件で引き込み、解決でうならせる。
ムービーのショウとはそのようなものであるが、
「これはこのようなものである」
がうまく自分の中で消化できないと、
「満足の行くものを見た」とならないのだ。


絵なら描いてあるものがそれだけど、
映画なら写っているもの全部なので、
それは事件から解決まで全部ということになる。
そして、
その、「始めから終わりまでの全部が、
『人生とはこのようなものである』になっている」とき、
みんな絵を見たときと同じ満足感があるということだ。

つまり、物語とは、絵以上に色々と手を変え品を変えて、
事件から解決まで色んなものを見せながらも、
絵と同じものを最終的に与えないと、
満足してもらえないのである。

いい映画の事を名画という。
いい絵のことも名画という。
同じ言葉なのに注意せよ。


「いいものを見た」
とみんなが言うのは、
事件が引き込まれたからでもなく、
結末に満足が行ったからでもない。
それらはまだ最低限の必要条件にすぎない。

ほんとうに満足が行くのは、
「これ(人生)はこのようなものである」
ということに対して、満足が行ったときだ。


前から自分が思っていたことを、
「やっぱりそうだ」と再確認しても良い。
全く聞いたことがなかったが、
今回初めてそのことを考えられて、
「たしかにそうだ」と思えても良い。

どれだけ深く満足するかによる。


そしてそれはどのように与えられるかというと、
説教の形ではなくて、
感情移入という形を使う。

「あの人は私とは全く違う人であるが、
もし私があの人だったら、きっと同じことを思い、
行動するに違いない」
と思うことによってだ。
つまり、外見のシンクロではなくて、
内面のシンクロをすることで、
感情移入は起こる。

だから、その人が事件を解決したり、
ハッピーエンドになったりしたら、
わがことのように喜べるわけだ。


そのために、人物造型は、
納得の行く人物像でなければならない。
本当にいそうということと、
人間の深い洞察に基づく何かで、楽しめなければならない。

「それが実在するとその時は信じて見る」のが、
物語という娯楽だからだ。




絵を描くこと以外に、
これだけのことを物語は用意する。
絵を描いている場合ではないのだ。

両方やる漫画家はたいへんだなと思うが、
実のところ漫画家は絵を描いていない。
物語を書いている。

絵を描くのはただ得意なことで、
歌が上手い人が歌で物語を語っているのとたいして変わらないと思う。

ただ絵の方がメディアに乗りやすいだけだ。
絵が得意な人は漫画を描けばいいし、
文章が得意な人は小説を書けばいい。
両方得意な人は監督をやればいい。
歌が得意な人はシンガーソングライターかな。

いずれにせよ、
みんな絵じゃなくて、物語を書いている、
という意識でやっていると思う。



絵は、なにをどうやって固定するかを考える。

物語は、動いて止まる(解決する)までやり、
それによってなにがどうやって固定化されるのか、
まで考える。

そのちがいだ。


全然違う、という裏には、
これだけの情報量が流れていると思う。
posted by おおおかとしひこ at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック