2026年07月07日

登場人物であり、キャラクターではない

英語ではどちらもcharacterだろうが、
日本語では登場人物とキャラを使い分けていると思う。


たとえば、
ある人間がキャラを場面で使い分けている、
ということは現実でも良くあると思う。

先生が生徒の前にいるときと、
母親の前にいるときと、
風俗にいるときと、
同窓会で小学生の友達に再会したときのキャラは、
全部違うと思う。

同じ一つの人格であり、
連続しているが、
使い分けているということだ。
意図的に使いわけているというよりは、
自然にキャラが変わるだろうね。

たとえばどんな人でも、
お葬式に出席するときは、
お葬式に出席する人の仮面をかぶるに違いない。

それは、そのようにペルソナをかぶっているわけだ。
で、それが内面化して、
無意識に使いわけているのが、
キャラクターかもしれない。
キャラクターを演じるというよりは、
文脈に応じて自然に出るやつだね。


先日女友達と飲んでて、
彼女が予約した店に電話するときになって、
急によそ行きの高い声を出して、
笑ってしまったことがある。
お前そんな声持ってたのかよ、
ってくらい普段と違っていた。

それは無意識のなせる業かもしれない。
他人の目線を意識したときと、
していないときで、人は変わりえる。
たとえば男しかいない戦場で、
一人だけ女の子の人形を置くと、
むさくるしい現場がおだやかになることが知られている。
男は、無意識に女性の前では、
紳士であるようにふるまう生き物であるわけだ。


さて、
ペルソナとキャラクターという、
人間の奥深くの話もあるのだが、
もう少し商業的な話にも、
キャラクターという概念は出てくる。
キャラクターグッズ、人気キャラという話でだ。

漫画、アニメでは、
キャラクター商売がさかんなので、
キャラ人気は作品の人気に直結する。

だから、より立つキャラクター
(強くて他と被らない、被ったとしても独自性の高いもの)
が重宝される。
アイドルグループなどでも、
目立たない地味なキャラは生き残れなくて、
特別な、独特のキャラづくりをしていくことになる。

これは偶像化ということである。
キリスト教では神の偶像は禁止だ。
仏教では偶像化をして、仏像を拝む。
聖人のイコン画、歌舞伎の役者絵、
ジャニーズのブロマイド、
○○アニメのコラボグッズ、
などなど、偶像化の歴史は世に数多ある。
それは商売のネタになるわけだ。
(だからキリスト教ではそれを戒めて禁止するわけだね)

漫画ではとくに、
キャラクター商売を意識して、
キャラクター優先で決めたりすることが多い。
勝手にキャラが動き出して、
ストーリーを作ることもままあるしね。

長期連載では、キャラクターありきで進めたほうが、
ストーリーありきで進めるよりも楽なことが多いだろう。
「おなじみのこのキャラたちが、
今度はこんな冒険をする!」
というのは映画版でよくあるテンプレで、
それはつまり、
キャラクター生かしの今回のシナリオ違い、
ということになるわけだ。

「おなじみのこのシナリオを、
今度はこのキャラたちでやります!」よりも、
人はおもしろそう、と思う、ということだね。


つまり、客は、
ストーリーよりもキャラにつく。

キャバ嬢についていくわけで、
店や、話そのものについていくわけではない、
ということである。
ファンとはつまり、キャラを愛する人のことだ。

ファン向け商売かどうか、
ファン以外へ向けたものかは、
商売をコントロールする上で、考えなければならないことだよね。


映画でも、シリーズものになるときがある。
キャラが人気が出て、
別のシナリオが欲しい、というときだ。

こうやってIPビジネスは生まれた。
IPとか言ってるけど、
なんのことはない、キリスト教が禁止した、
古代からある偶像崇拝ビジネスにすぎないわけ。

スタンプラリーと原理は同じ、
神社の朱印集めも、
まったく同じ原理だよね。



さて。
ようやくシナリオ論になる。

登場人物、と僕は注意してよくここで使っている。
それは、あくまでこれは人間の話であり、
キャラの話ではないぞ、
ということを強調するためだ。

キャラクター、キャラと呼ぶと、
漫画っぽく、IPビジネスっぽく、
群れの中で立つキャラっぽくなってしまう。
それを第一義に考えると、
クラスの中で目立とうとする子たちばかりになり、
お話と関係ないところに注力することになるからだ。

もちろん、
一度、話が出来てから、
魅力的なキャラクターのガワをかぶせることはするべきだ。
しかし、もっとも大事な背骨を決める、
脚本という場所では、
まず話をつくるべきであり、
キャラはあとでつくるべきだ。

なぜなら、
キャラは出来ても話が出来ない、という事は世の中にごまんとあるが、
ストーリーは出来るが、キャラが出来ない、
ということはないからだ。

だから先に難しい方をクリアしてから、
簡単な方をやるといいよ、
というアドバイスなのである。


そのためには、
キャラクターと呼ぶよりも、
「登場人物」と、
実在の人のように扱ったほうが、
映画的ストーリーを組みやすいよ、
ということを言おうとしている。



僕はもともと漫画家を目指していたので、
キャラを優先的に思いつくことがある。
そのキャラありきで、
勝手に動かして、
色々助けてもらうこともある。

だけどそれをやれる確率よりも、
キャラを一回捨象して、
その登場人物の、動機、目的、ストーリーライン、
テーマとの関わり、変化などの、
リアルな実在空間との関係性で想像したほうが、
うまく脚本を書ける確率が高い。

もちろん、キャラを動かしてストーリーを書ける人はそのままやればいいが、
たいていは最初は書けても最後まではうまく行かないよ、
という経験則と、
キャラありきでやるから最後まで出来ないのでは、
という話である。

顔のデザインをしたり、
服や持ち物をデザインしたり、
近そうな写真を探すことで、
そのキャラを立てていくことは出来る。

しかし、それをやるよりも、
動機や目的を先につくり、
ラストはどうなっているかをつくり、
テーマの逆の状態から始められるように初期設定をつくったほうが、
ストーリーをつくることは簡単になるよ、
ということを言いたいわけだ。

極論、顔も服も持ち物もつくらなくても、
動機とゴールとその逆さえつくっておけば、
ストーリーをつくることは出来る。

もちろん、バックストーリーや現在のリアリティをつくっておくと、
解像度よく脚本は書けるのだが、
最悪なくてもその都度つくればいい、
くらいだと思ったほうがいい。


「まずキャラクターをつくろう」と、
よく指南書で出てくるのかもしれないが、
それは「できるところからやって達成感を持とう」
という教え方だと僕は思っていて、
実のところ挫折者の多いやり方だと思う。

最後まできちんとつくれる確率が高く、
再現性がある技術とは、
キャラではなく、
登場人物をつくり、
ストーリーを作り終えてから、
キャラのガワをかぶせなおしたほうが、
有効だと思っている。


キャラを動かしてストーリーをつくると、
話があっちこっちに行き、
カオスになり、
まとまるものもまとまらないことが多い。
アドリブで何かを話してみれば分る。
なかなかきれいに流れないことが多いよ。

このやり方でうまく行く人はそれでいいが、
それで挫折するくらいなら、
キャラなどあとからつくれ、
ということを言いたい。


たとえばキャラありきでものをつくると、
そのキャラを守らなければならなくなり、
話の自由度が落ちる。

風俗に行った先生が、
生徒が嬢で出てきたときに、
どっちのキャラ(ペルソナ)で行こうか迷う、
ということだって現実にはある。
最初は客キャラで初めて、
ちょいちょい先生が混じって興奮してきて、
なんてことだってあるよね。

その人間のおかしみを、
キャラありきだと描けなくなるよね。
posted by おおおかとしひこ at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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