英語ではどちらもcharacterだろうが、
日本語では登場人物とキャラを使い分けていると思う。
たとえば、
ある人間がキャラを場面で使い分けている、
ということは現実でも良くあると思う。
先生が生徒の前にいるときと、
母親の前にいるときと、
風俗にいるときと、
同窓会で小学生の友達に再会したときのキャラは、
全部違うと思う。
同じ一つの人格であり、
連続しているが、
使い分けているということだ。
意図的に使いわけているというよりは、
自然にキャラが変わるだろうね。
たとえばどんな人でも、
お葬式に出席するときは、
お葬式に出席する人の仮面をかぶるに違いない。
それは、そのようにペルソナをかぶっているわけだ。
で、それが内面化して、
無意識に使いわけているのが、
キャラクターかもしれない。
キャラクターを演じるというよりは、
文脈に応じて自然に出るやつだね。
先日女友達と飲んでて、
彼女が予約した店に電話するときになって、
急によそ行きの高い声を出して、
笑ってしまったことがある。
お前そんな声持ってたのかよ、
ってくらい普段と違っていた。
それは無意識のなせる業かもしれない。
他人の目線を意識したときと、
していないときで、人は変わりえる。
たとえば男しかいない戦場で、
一人だけ女の子の人形を置くと、
むさくるしい現場がおだやかになることが知られている。
男は、無意識に女性の前では、
紳士であるようにふるまう生き物であるわけだ。
さて、
ペルソナとキャラクターという、
人間の奥深くの話もあるのだが、
もう少し商業的な話にも、
キャラクターという概念は出てくる。
キャラクターグッズ、人気キャラという話でだ。
漫画、アニメでは、
キャラクター商売がさかんなので、
キャラ人気は作品の人気に直結する。
だから、より立つキャラクター
(強くて他と被らない、被ったとしても独自性の高いもの)
が重宝される。
アイドルグループなどでも、
目立たない地味なキャラは生き残れなくて、
特別な、独特のキャラづくりをしていくことになる。
これは偶像化ということである。
キリスト教では神の偶像は禁止だ。
仏教では偶像化をして、仏像を拝む。
聖人のイコン画、歌舞伎の役者絵、
ジャニーズのブロマイド、
○○アニメのコラボグッズ、
などなど、偶像化の歴史は世に数多ある。
それは商売のネタになるわけだ。
(だからキリスト教ではそれを戒めて禁止するわけだね)
漫画ではとくに、
キャラクター商売を意識して、
キャラクター優先で決めたりすることが多い。
勝手にキャラが動き出して、
ストーリーを作ることもままあるしね。
長期連載では、キャラクターありきで進めたほうが、
ストーリーありきで進めるよりも楽なことが多いだろう。
「おなじみのこのキャラたちが、
今度はこんな冒険をする!」
というのは映画版でよくあるテンプレで、
それはつまり、
キャラクター生かしの今回のシナリオ違い、
ということになるわけだ。
「おなじみのこのシナリオを、
今度はこのキャラたちでやります!」よりも、
人はおもしろそう、と思う、ということだね。
つまり、客は、
ストーリーよりもキャラにつく。
キャバ嬢についていくわけで、
店や、話そのものについていくわけではない、
ということである。
ファンとはつまり、キャラを愛する人のことだ。
ファン向け商売かどうか、
ファン以外へ向けたものかは、
商売をコントロールする上で、考えなければならないことだよね。
映画でも、シリーズものになるときがある。
キャラが人気が出て、
別のシナリオが欲しい、というときだ。
こうやってIPビジネスは生まれた。
IPとか言ってるけど、
なんのことはない、キリスト教が禁止した、
古代からある偶像崇拝ビジネスにすぎないわけ。
スタンプラリーと原理は同じ、
神社の朱印集めも、
まったく同じ原理だよね。
さて。
ようやくシナリオ論になる。
登場人物、と僕は注意してよくここで使っている。
それは、あくまでこれは人間の話であり、
キャラの話ではないぞ、
ということを強調するためだ。
キャラクター、キャラと呼ぶと、
漫画っぽく、IPビジネスっぽく、
群れの中で立つキャラっぽくなってしまう。
それを第一義に考えると、
クラスの中で目立とうとする子たちばかりになり、
お話と関係ないところに注力することになるからだ。
もちろん、
一度、話が出来てから、
魅力的なキャラクターのガワをかぶせることはするべきだ。
しかし、もっとも大事な背骨を決める、
脚本という場所では、
まず話をつくるべきであり、
キャラはあとでつくるべきだ。
なぜなら、
キャラは出来ても話が出来ない、という事は世の中にごまんとあるが、
ストーリーは出来るが、キャラが出来ない、
ということはないからだ。
だから先に難しい方をクリアしてから、
簡単な方をやるといいよ、
というアドバイスなのである。
そのためには、
キャラクターと呼ぶよりも、
「登場人物」と、
実在の人のように扱ったほうが、
映画的ストーリーを組みやすいよ、
ということを言おうとしている。
僕はもともと漫画家を目指していたので、
キャラを優先的に思いつくことがある。
そのキャラありきで、
勝手に動かして、
色々助けてもらうこともある。
だけどそれをやれる確率よりも、
キャラを一回捨象して、
その登場人物の、動機、目的、ストーリーライン、
テーマとの関わり、変化などの、
リアルな実在空間との関係性で想像したほうが、
うまく脚本を書ける確率が高い。
もちろん、キャラを動かしてストーリーを書ける人はそのままやればいいが、
たいていは最初は書けても最後まではうまく行かないよ、
という経験則と、
キャラありきでやるから最後まで出来ないのでは、
という話である。
顔のデザインをしたり、
服や持ち物をデザインしたり、
近そうな写真を探すことで、
そのキャラを立てていくことは出来る。
しかし、それをやるよりも、
動機や目的を先につくり、
ラストはどうなっているかをつくり、
テーマの逆の状態から始められるように初期設定をつくったほうが、
ストーリーをつくることは簡単になるよ、
ということを言いたいわけだ。
極論、顔も服も持ち物もつくらなくても、
動機とゴールとその逆さえつくっておけば、
ストーリーをつくることは出来る。
もちろん、バックストーリーや現在のリアリティをつくっておくと、
解像度よく脚本は書けるのだが、
最悪なくてもその都度つくればいい、
くらいだと思ったほうがいい。
「まずキャラクターをつくろう」と、
よく指南書で出てくるのかもしれないが、
それは「できるところからやって達成感を持とう」
という教え方だと僕は思っていて、
実のところ挫折者の多いやり方だと思う。
最後まできちんとつくれる確率が高く、
再現性がある技術とは、
キャラではなく、
登場人物をつくり、
ストーリーを作り終えてから、
キャラのガワをかぶせなおしたほうが、
有効だと思っている。
キャラを動かしてストーリーをつくると、
話があっちこっちに行き、
カオスになり、
まとまるものもまとまらないことが多い。
アドリブで何かを話してみれば分る。
なかなかきれいに流れないことが多いよ。
このやり方でうまく行く人はそれでいいが、
それで挫折するくらいなら、
キャラなどあとからつくれ、
ということを言いたい。
たとえばキャラありきでものをつくると、
そのキャラを守らなければならなくなり、
話の自由度が落ちる。
風俗に行った先生が、
生徒が嬢で出てきたときに、
どっちのキャラ(ペルソナ)で行こうか迷う、
ということだって現実にはある。
最初は客キャラで初めて、
ちょいちょい先生が混じって興奮してきて、
なんてことだってあるよね。
その人間のおかしみを、
キャラありきだと描けなくなるよね。
2026年07月07日
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