2026年07月15日

映画ってのは、人生を描くんだ

映画ってなんだろう。
なんで僕らは映画を見るんだろう。
よく分らない。

単にショウを見るだけなら、
YouTubeやテレビやライブでいい。
映画にしかないものはなんだろう。

僕は、人生が描かれているから、だと思う。


人生には、軽いから重いまである。
ちゃらいやつが今日のナンパを成功したり失敗する程度のものから、
真剣なやつが一生をかけて成し遂げることや、
なんなら三代かけて何かをする話だってある。

その、何をどう切り取ってもいい。
そして、それがどういうエンターテイメントになっているかが、
僕は映画だと思う。

つまり二重性だ。
単なるエンターテイメントでもなく、
単なる人生でもなく、
それは「人生というショウ」ということだ。


ただのショウでいいならば、
どこかの大道芸でもいいし、
風俗でもいい。
単なる人生ならば、
ドキュメンタリーや本当の人生の方がよほどつらい。

そのどっちでもないし、
どっちつかずでもないし、
その融合で、どっちにもない、
新しい世界をつくるのが映画というジャンルだと思うといい。



ショウの部分はある。
それを僕はガワと呼んでいる。

人気芸能人が出るとか、それがこういう役どころでこういう格好をするとか、
共演は誰かとか、
コメディリリーフにこの人が出るとか、
ロケ地はここでとか、
こういう曲が流れるとか、
ダンスがあるとか、特撮があるとか、
衣装がすごいとか、ロケ地がすごいとか、
時代劇とか、
人気原作とか、
新しい撮影方法とか、
色々ある。

でもそれは、ショウの部分、ガワしか語らない。
中身の部分、人生の部分を語っていない。


単に中身だけをむき出しにすると、
湿っぽい日本映画の、
文学的なつまらないやつになる。

それが新規性のあるガワに海外から見えたときは、
海外で賞を取るかもしれない
(たとえば昔の川瀬直美とか)が、
日本では飽きられた、ただの湿っぽい何かだ。
どんなに中身が良くてもね。

つまり、
良い中身を、良いガワで包まなければならない。

なんなら、
その中身とガワのマリアージュを、
楽しめるように、
あるいは、この組み合わせはなかった、
という創作をしなければならない。


脚本というのは、中身に偏りがちだ。
なぜなら撮影や役者や、音楽などの、
総合芸術であるからで、
そこまで脚本では書けないからだ。

映画は第七芸術である。
それまでの六つの芸術、
建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏、文学を、
総合した七番目の芸術という意味だ。

建築=セット、ロケ地、
絵画=撮影、照明、
彫刻=小道具、
音楽=劇伴、主題歌、効果音、
舞踏=ダンス、ステージング、移動キャメラ、
文学=脚本

と考えれば、脚本のカバーできる範囲は狭いのだ。
しかし脚本が全ての背骨になるから、
映画は最初に脚本を書くのだ。
映画を撮るのに最初に建築をしないのだ。


だから中身=文学を書くのだが、
それをどういうガワでマリアージュさせるか、
というのは、もちろん計画しておくべきだと思う。

中身むきだしの、
ただの湿っぽいブンガクを置いておいても、
それは脚本の価値はない。

それが、こういうガワ(残りの5つ)をまとったら新しいよね、
あるいは、傑作でしょ?
ということを「企んで」いなければ、
「映画の」脚本ではない。



さて、中身のその話だが、
それが、「人生を描いたもの」ということだ。

その人生を見て、何がおもしろいんだ?
ということだ。
それを見て、こう面白いんです、
という計画が出来ているか?という話だ。


単なる事件と解決だと、
まあ良くあるドキュメンタリーと変わらない。
単なるドタバタ騒ぎだと、
ただのから騒ぎだ。

だけど、
それが、「ああ、人生とはこういうものだ」
という意味があるものになると、
それは映画のシナリオになる。

単に変わった事件や、
変わった解決を描くのではない。

それが、「ああ、人生とはこういうものだ」
になっていないと、
映画にはならない。



さんざん暴れたけど、
それってなんだっけ?
になるのが、「クローバーフィールド」という失敗映画だ。
あるいは、
最初さんざんサスペンスで煽っておいて、
結局大暴れして、
それってなんだっけ?になるのが、
「フロムダスクティルドーン」というB級映画だ。
あるいは、何かものすごい事件が起きている、
起きそうなのに、
何にもならなかったのが、
「マルホランドドライブ」という失敗映画だ。
あるいは、
かつてのヒーローアニメを原作としながら、
その崇高な精神に何も至れなかったのが、
日テレ映画版「ガッチャマン」だ。
さらにそれを下回る、革命的な歴史に残る漫画を原作に持ちながら、
その真反対の価値に至った、
「デビルマン」を見るといい。
「それが、なに?」って言いたくなるに違いない。

最近見たのは、
トークはまあおもしろかったが、
それが何にもならなかった、
ユマニテュードの説明でしかなかった、
「急に具合が悪くなる」だね。
僕はクソ映画だと思う。

世の中にそうしたゴミはあふれている。
それは、
「その映画が、人生を描いていないから」だ。

派手なアクションや絵があるのはいい。
ショウだからね。

でもそれが必ずしもマストとは限らない。
人生の大切な瞬間や、
人生の意味が描かれていれば、
それが映画の正体だと僕は思う。


たとえば、
「グッドウィルハンティング」は、
派手なショウは何もないのに、
心にしみる人生の映画になっている。

外連味がなく、地味ではあるが、
美しく撮られているし、
人生の本当の瞬間が詰まっているから、
胸を打つ。

こうした映画もあれば、
ド派手でショウアップされているのに、
最後はアイアンマンというアイデンティティーに戻って来る、
「アイアンマン」から始まる一連のMCU、
「エンドゲーム」に至るまでの、
人生の意味という映画もある。

ガワはあくまで玉ねぎの皮であり、
剥いていくと最後に残る芯は何か、
というと、人生だ、
というのが映画だと思う。


あなたの人生とは異なる、
まったく別の人の人生を見ることで、
自分の人生と重ね合わせて考えたり、
人間の可能性の広さや狭さについて考えたりすることが、
映画を見るということの芯だと僕は思う。

ド派手でもいい。
地味でもいい。
ほぼユダヤの収容所ワンシチュエーションでやり切った、
「ライフイズビューティフル」という傑作もある。

なんでもいい。
おもしろければいい。
人生の何かを味わえれば、なんでもいい。

逆に、
「人生のこれを見ようぜ」という提案が、
映画という提案だと思うとよい。


人生というと深くてややこしくなるから、
その人の何か、でいいと思う。
映画はときにロボットや犬や吸血鬼が主人公になることもあるが、
ロボットや犬や吸血鬼の本質を描くことは目的ではなくて、
それで逆に照射される、人間というものの本質を描くための鏡でしかないわけだ。

だから人の何かを、人生から小さなものまで、
描ければ、
僕はそれは映画になると思う。


「で、それは何?」って言われるのは、
それがない映画だってことだね。



じゃあ、人生の何を描こう?

最初は言葉になっていなくていい。
多分このへん、というイメージでいい。
それは着地点だろうか、
それとも途中だろうか、
それとも最初のあたりだろうか。

僕は、着地点であるべきだと思う。
そういうことがあって、
こういうものが人生の本質だと思う、
という作者のアンサーが出るところが、
もっとも大事だと思う。

それがイメージ出来ていないのに、
走り出すと、ほぼ100%たどり着けないと思う。
ゴール無きプロジェクトなんて破綻しかないでしょ。
「福島復興をゴールとした東京オリンピック2020」は、
その看板がなくなったら、どうなった?
「大東亜共和圏をつくるための帝国戦争」
というゴールがなくなった太平洋戦争は、
どうなった?
そういうものだ。



映画は人生を描く。
私たちは、映画に描かれた人生を楽しむ。
もちろん、ガワと中身のマッチ、アンマッチも楽しむ。
だから最高の娯楽だと、僕は思う。
posted by おおおかとしひこ at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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