実際に命を狙われたことはないけれど、
命か、何かを言うか、
の二択になったとき、
命を引き換えにしても言うべきことがあれば、
僕は言うと思う。
ただその記述に、qwertyローマ字ではだめだ。
書くことは僕の命を差し出していることに等しい。
どうでもいい冗談から、
真剣なことまで、
僕は命を張って書いてるわけだ。
この書くということが僕の命の軌跡であるわけだ。
その軌跡を刻もうとしているときに、
書けないボールペンを使うやつがいるだろうか?
10分やる、最後の言葉を書いて良い、
とqwertyローマ字を渡されたら、
てめえふざけんなと突き返すだろう。
私は思考で出来ている。
思考は言葉にすることで外に出せる。
言葉を呼んだ人はそれを通じて私の思考を知り、
内的会話ができる。
つまり思考は私の命そのものだ。
この、思考から言葉に至るタイピングのルートが、
あまりにも糞みたいだと、
僕は手書きマスターの立場から批判しているわけだ。
薙刀式+ワンショット漢直をつくり、
自作キーボードで、
改造キースイッチや自設計3Dプリントキーキャップをつくるのは、
「キーボードが手書きに足りていない」からだ。
つまりqwertyは私を殺していた。
だから僕はqwertyを殺して、
代替案を提案している。
qwertyローマ字に命を差し出す価値はない。
それは初期の馬車や車のようなものだ。
何人も死んで、今の車に技術が進化したのだ。
馬車や車は人が死んだから、
改良が進んだ。
思考の死者が目に見えないから、
改良が進まないのだ。
馬車や車は人を何人殺しただろう?
何億人レベル?
qwertyローマ字は、1億人は日本人を殺してるね。
数万人くらいのごくわずかなqwertyをねじ伏せた人だけが、
死なずに済んでるだけだろう。
命が欲しければ薙刀式を使え。
思考を確保したければ、手書きか薙刀式を使え。
薙刀式のところには、他の新配列を代入してもよい。
そこは人によるだろうから。
ペンは剣より強い。
そしてペンの形は自由だ。
命と引き換えに書くべきものを、
書けないボールペンで書くなよ。
2026年07月03日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

