そういえば手書きの時、
俺「書いた文字を見る」すらしていなかったわ。
「書いたはずという確信」で先に進めているわ。
「変換結果をわざわざ見る」は、
僕にとって、かなり負荷が高いことなんだなあ。
そもそもカナ漢字変換は、
なぜ打ったものを見なきゃいけないんだ、
というのが僕の言い分ということか。
もともと書いた字など見なくても、
「自分が何を書いたか知っている」わけだから、
見る意味などないわけだ。
それはダンサーの感覚に近いのかな。
鏡をいちいち見なくても、
動いた感触で、
自分の軌道は把握している、みたいなことか。
なんで書いた字をいちいち見るの?
って感覚なんだな。
カナ漢字変換は、
変換後の確認作業がいちいち発生する。
それが僕にとって、元々かなり負荷が高いことなんだろう。
それがなくなる(部分)漢直は、
僕にとって楽な方式ということになる。
僕が手書きするときは、
自分用の手書きと、他人用の手書きがある。
他人用の手書きは読みやすいように丁寧に書くため、
監視するコストが必要になるから、
そんなには速く書けないと思う。
でも自分用の原稿だと、
確認など不要なので、
その分高速に書いていけるのではないかなあ。
それが大学生平均の3倍という異常な、
900字/10分という数字に出ているのだろう。
薙刀式で書いている時でも、
実は変換直後の文字はほとんど見ていない。
書くべき次の(意識内の)文字を見ていたりする。
なので、書いてから数秒後に間違いに気づき、
「戻って再変換」をよくするんだよね。
それは動画でもよく見る光景だと思う。
それにしても、
監視コストがかかっているわけで、
だからカナ漢字変換は、
つねに監視コストを俺に払わせている、
ということになる。
手書きならば、それが0になるわけか。
だから蒸発は純粋な速度になり、
それを基準とすると、
タイピングでカナ漢字変換を使うときには、
その蒸発速度が、
監視コストに払われる分、
速くなると考えられるということか。
で、今部分漢直になっているから、
その間にいる、
という感覚なのかしらね。
タイピングしているときは、
「この漢字は変換しねえだろうなあ/
これくらいは変換するだろう」
という意識がわずかにある。
だから、足を止めるか止めないか、
という判断をしなければならない。
デフォルトは止まらない、
注意が必要な時は止まる、みたいな。
その判断の分、
蒸発してしまっているんだろうなあ。
この感覚、
「文字を見ないで書く」
という感覚が最初からないと、
違和感を感じないのかもしれない。
え?文字は見ながら書くものでしょ?
という先入観があったら、
気づけない感覚かも知れないなあ、
などと思ったのであった。
つまり漢直の3割部分はノールックで良くなる。
ひらがな部分もノールックのまま。
漢字変換の監視コストを払うべき所は、
漢字含有率3割のうちの7割、
つまり2割程度になる。
だから監視コストが低減して、
結果的に蒸発がゆっくりになるんじゃないかしら。
それゆえ、
結果的に執筆速度が落ちても、
「蒸発する前に書ける」という感覚が、
保ちやすいのではないかな。
書く速度をあげれば蒸発しない、
というのはひとつの解決策だが、
蒸発速度を下げる、
というのもひとつの解決策だ。
従来のタイピング理論は、
書く速度の話しかしていない。
それは英語のような、
変換を伴わない言語の単純すぎる理論を、
そのまま適用しただけの話であろう。
変換によって意識が変性しているということを、
もう少し研究するべきだったのだろう。
というわけで、今快適である。
2026年07月11日
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