2026年07月11日

【薙刀式】モニタリングコスト

そういえば手書きの時、
俺「書いた文字を見る」すらしていなかったわ。
「書いたはずという確信」で先に進めているわ。

「変換結果をわざわざ見る」は、
僕にとって、かなり負荷が高いことなんだなあ。


そもそもカナ漢字変換は、
なぜ打ったものを見なきゃいけないんだ、
というのが僕の言い分ということか。

もともと書いた字など見なくても、
「自分が何を書いたか知っている」わけだから、
見る意味などないわけだ。
それはダンサーの感覚に近いのかな。
鏡をいちいち見なくても、
動いた感触で、
自分の軌道は把握している、みたいなことか。

なんで書いた字をいちいち見るの?
って感覚なんだな。


カナ漢字変換は、
変換後の確認作業がいちいち発生する。
それが僕にとって、元々かなり負荷が高いことなんだろう。
それがなくなる(部分)漢直は、
僕にとって楽な方式ということになる。


僕が手書きするときは、
自分用の手書きと、他人用の手書きがある。

他人用の手書きは読みやすいように丁寧に書くため、
監視するコストが必要になるから、
そんなには速く書けないと思う。

でも自分用の原稿だと、
確認など不要なので、
その分高速に書いていけるのではないかなあ。
それが大学生平均の3倍という異常な、
900字/10分という数字に出ているのだろう。

薙刀式で書いている時でも、
実は変換直後の文字はほとんど見ていない。
書くべき次の(意識内の)文字を見ていたりする。
なので、書いてから数秒後に間違いに気づき、
「戻って再変換」をよくするんだよね。
それは動画でもよく見る光景だと思う。
それにしても、
監視コストがかかっているわけで、
だからカナ漢字変換は、
つねに監視コストを俺に払わせている、
ということになる。

手書きならば、それが0になるわけか。
だから蒸発は純粋な速度になり、
それを基準とすると、
タイピングでカナ漢字変換を使うときには、
その蒸発速度が、
監視コストに払われる分、
速くなると考えられるということか。

で、今部分漢直になっているから、
その間にいる、
という感覚なのかしらね。


タイピングしているときは、
「この漢字は変換しねえだろうなあ/
これくらいは変換するだろう」
という意識がわずかにある。

だから、足を止めるか止めないか、
という判断をしなければならない。
デフォルトは止まらない、
注意が必要な時は止まる、みたいな。
その判断の分、
蒸発してしまっているんだろうなあ。


この感覚、
「文字を見ないで書く」
という感覚が最初からないと、
違和感を感じないのかもしれない。

え?文字は見ながら書くものでしょ?
という先入観があったら、
気づけない感覚かも知れないなあ、
などと思ったのであった。


つまり漢直の3割部分はノールックで良くなる。
ひらがな部分もノールックのまま。

漢字変換の監視コストを払うべき所は、
漢字含有率3割のうちの7割、
つまり2割程度になる。

だから監視コストが低減して、
結果的に蒸発がゆっくりになるんじゃないかしら。

それゆえ、
結果的に執筆速度が落ちても、
「蒸発する前に書ける」という感覚が、
保ちやすいのではないかな。


書く速度をあげれば蒸発しない、
というのはひとつの解決策だが、
蒸発速度を下げる、
というのもひとつの解決策だ。

従来のタイピング理論は、
書く速度の話しかしていない。

それは英語のような、
変換を伴わない言語の単純すぎる理論を、
そのまま適用しただけの話であろう。

変換によって意識が変性しているということを、
もう少し研究するべきだったのだろう。


というわけで、今快適である。
posted by おおおかとしひこ at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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