薙刀式×ワンショット漢直を使ってる時の感覚。
qwertyローマ字からカタナ式に変えた時は、
空間が整理されたと感じた。
散らかった部屋が片付いた感覚だろうか。
文字をさわれた、という感覚があった。
だけどまだことばにさわった感触はなかった。
一部アルペジオでは「ことばの一部」にさわった感覚はあったが、
一部だったな。
カタナ式から薙刀式に変えた時は、
ことばに直接さわれた気がした。
文字をさわっている状態から、
ことばへ格上げされた。
それどころか、
ことばからことばへのつながり、
川の流れのようなものを直接さわっている感触があった。
川の流れに手を入れて、流れを変えられる感覚があった。
だけどまだ僕は、
手にコンドームをつけてる感じだった。
さわってるけど本当にはさわってない感じ。
薙刀式×ワンショット漢直で、
ようやく日本語にさわっている感覚になった。
ことばやことばの流れ以上の、
ことばになる以前の、思考や日本語そのものに、
さわれている。
日本語という粘土を、
やっと直接こねられる感覚、
みたいなことだろうか。
薙刀式では直接さわれるのはカナまでで、
漢字を直接さわれていなかった。
漢字含有率3割として、
7割はさわれていたが、
3割は目隠しをされてランダムゲームだった。
自分が書く言葉にランダム要素を入れるやつはいない。
それは人格がランダムになることだ。
統御こそが知性である。
3の倍数だけアホになるやつは、知性などない。
今、3割のうち3割は、直接さわれる。
つまり7.9割は、直接さわれるようになった。
しかも同音異義のメジャーなやつは潰したので、
ノールック確定が比較的できるようになった。
なので主観的には9割ぐらいは、
直接さわっている感覚だ。
日本語に直接さわる感覚、
粘土にコンドームなしで手をふれ、
直接こねる感覚は、
自分の脳にさわる感覚でもある。
僕はキーボードを初めて触って以来40年ぐらい、
一度もキーボードで脳にさわった記憶がない。
手書きのペンなら毎日さわっているのにだ。
隔靴掻痒が、やっと靴を脱いで裸足になったのだ。
もちろん小石を踏めば痛いし、
針の上にいけば刺さって血が出る。
だがそれがリアルで、書くということだ。
コンドームなしの生というものだ。
つまり逆に言えば、
きみたちはキーボードで生から遠ざけられている。
キーボードを作ったほとんどの人が、
生の感覚を知らなかったからだ。
きみたちは保護されていた。
あるいは、生から隔離されていた。
ようやくキーボードで脳にさわれるようになった。
だからやっとキーボードが消えたのだ。
とはいえ100%ではないから完璧ではない。
あくまで7.9割、主観9割の妥協点だ。
手書きよりこの手段を選ぶ時は、
通信できるからだ。
それが喫緊であれば薙刀式×ワンショット漢直。
喫緊でなく、100%脳と日本語に触りたいなら、
手書き。
ああ、やっと靴を脱いでコンドームをはずして、
頭蓋骨をあけられる。
僕はずっとキーボードの前で鎧のような服を着ていた。
今は全裸どころか、脳を露出している。
2026年07月15日
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