Twitterから。
https://x.com/knshtyk/status/2077393395325276283?s=20
フィルムは官能性が強いとか、
ダイナミックレンジ(ラテチュード)が狭いとか、
粒子性があるとか、
周辺落ちがあるか、
あるいは回折によって周囲と溶けやすいとか、
「技術」で語られる事は多い。
でもなぜデジタルがダメで、
フィルムがいいかをもっと言葉で語ってる人は少ない。
「フィルムの方がエモい」というのは、
なんとなくみんなが共通して頷けると思う。
僕の言葉でいうと、
「フィルムは、いつか死ぬ感覚がある」
ってことかな。
デジタルが出てきた時のことを思い出そう。
(若い人は最初からデジタルだったから、
知らないかもしれない)
CDが出てきた時はどうか。
「劣化しない永遠のデータ」という触れ込みだったね。
アナログレコードは針で擦って音を出すから、
いずれ劣化していく。
だがCDはデジタルデータなので、
永遠に劣化しないって言われていた。
(この頃はまだCDという物理メディア自体が100年も持たないことは、
知られていなかった)
テキストは?
本や紙は劣化するから、データ化すれば永遠だ、
となったよね。
写真もだ。
レンズと銀塩反応と定着反応による、
光学から化学定着のアナログシステムは、
CCD(現在はCMOS)による、
光電反応のデータ保存システムに変わった。
すべてはデータとなった。
データは劣化しない。
メディアは物理だから劣化するが、
劣化する前に別のHDDやSSDに移せば、
永遠に保存できる。
「永遠になる」ことは、
命に限りがある我々人類にとって、
永遠の願いである。
人は死ぬが芸術は残るので、
我々は芸術を作ることで、
永遠になろうとしてきたわけだ。
それがついにデジタルによって、
永遠を手に入れたわけだ。
だがここで反転が起こってしまった。
デジタルは確かに永遠だけれど、
永遠がゆえに、
「なんでも残そう」という安易さが生まれたんよね。
収録時点でなるべく捨てずに豊かにデータを収録しておき、
あとで取捨選択をしよう、
という考え方が支配的となった。
たとえばスマホのカメラロールを見なさいな。
何枚も同じシチュエーションで撮ってるよね?
フィルムカメラのときはそうはいかなかった。
覚えているかい?「24枚撮り」という言葉を。
フィルムを装填して撮り切りまで、
僕らは24枚しか写真を撮れなかった。
(安いのは12枚撮り、高いのは48枚撮り、72枚撮りとかあったよね)
だが今は事実上無限に撮れる。
あるパーティーの写真で100枚200枚撮るのはあたりまえ。
なんなら1枚撮るのではなく、
ピャピャピャピャと連射で撮るよね。
その中から「一番盛れてるもの」をチョイスするのは、
すでに当然だ。
これは24枚撮りのときにはなかった考え方だ。
1日で24枚消費も勇気がいる。
できれば何日か持たせたいよね。
同じシチュエーションで2枚撮ることすら、
勇気がいった。
だから「ワンチャンス」を撮ることが、
写真を撮ることだった。
この時のプロの写真がうまかったのは、
技術ももちろんあったけど、
24枚撮りじゃなくて72枚撮りとかで、
一瞬で連射して一番盛れてるものを出す、
湯水のような金の使い方で得られたものだったから。
(だから昔のプロの写真は高かったのだよ。
技術料+経費が異常だったんだね)
昔のおじさんは、
「最近の子は写真が上手」とかいうけど、
実はそうじゃなくて、
1枚対72枚を、今の子たちはやってるからなんだよね。
いくらでもデジタルは使える。
ということは、1枚あたりの熱量が下がる。
定期入れの中のフォトグラフは何年も毎日見てたのに、
iphoneの中の写真は二度と見返すことがない。
永遠が価値があると思ったら、
無限永遠の価値が下がるという、
逆転構造が起こっている。
少し技術的な話をする。
先日見た「急に具合が悪くなる」は、
癌でもうすぐ死ぬ女が主人公だ。
だからはかなく、せつなく、しかし淡々とした日常が描かれる。
命の価値とはなんだろう?って問う作品である。
ところが全然それが伝わってこなくて、
僕には退屈な3時間だったのね。
その批評に関しては先日あげたので読んでもらうとして、
この映画、フィルムで撮ってたら良作だったのでは?
とふと思ったのよ。
なぜなら、フィルムに死が写る気がするから。
もちろん、心霊写真が写るとかそういうことではない。
フィルムは「この人たちは死ぬんだ」が写る気がするのよね。
なんでかというと、
フィルムは「これしか撮れない」があるから、
「これだけは撮っておきたい、
そのためにあとは諦めた」がある気がするのよ。
これって、
「永遠になれない者が、
せめて永遠でありたいと『願う』」
が写っていると思うんだ。
つまりエモイの正体さ。
エモイとは、永遠であることではない。
いつか死ぬ運命を持つ者が、
この一瞬だけは永遠と信じて、
たったそれだけを残して、あとはいらないです、
と「永遠を決めること」
なんじゃない?
「放課後の斜めの光の中、
誰もいない教室で、
カーテンが揺れてて、
好きな子が1人で本を読んでる姿」はエモイ。
これは、「この瞬間だけは永遠にしたい」
という気持ちそのものじゃない?
それは、僕らがいつか死ぬからだ。
とくにおじさんはこの好きな子と付き合えなかったから、
この子のいたあの瞬間こそ永遠と願うわけだ。
今風にいうと「尊い」かもね。
「いつか死ぬから、これを永遠に記憶にとどめたい」を、
フィルムは撮るのだと思う。
24枚撮りしかないから、
たったひとつこれだけは撮りたい、
という「決断」がそこにあると思う。
無限にピャピャピャピャって撮って、
盛れてるやつだけ残してという、
無限にごはんをおかわりして食べないやつは捨てる、
みたいなこととは、
全く違う考え方だ。
あとはいらないです、この半膳のごはんが全力永遠、
がフィルムなのだ。
フィルムは痩せ我慢だろうか?
その痩せ我慢が、
写るんじゃないかな?
「急に具合が悪くなる」は、デジタル撮影だ。
死ぬ運命のはずの主人公が、
とても綺麗に撮られていた。
でもデジタルは写りすぎるからか、
きちんとメイクしてるなあとか、
洋服がシワ一つないなあとか、
「急遽着替えもなく泊まってソファーで寝て起きた」はずなのに、
着衣が全然乱れてなくて、
アイロンをかけてブラ紐も見えない完璧な形に整ってるなあ、
みたいなのがすごく気になったのね。
この、きれいな姿が「死ぬ運命」には見えなかったのよ。
これは最終的には監督の責任だ。
「きれいすぎて死ぬ人に見えない」と判断するべきなのよ。
でもデジタルは綺麗すぎるから、
フィルムのようにならないのよ。
芸術とは、何かを捨てて何かを残すことだ。
それはつまり、
「私はこれである」と、覚悟を決めることだ。
盛り盛りの自分ではなく、
全てを捨てたひとつを、わたしと定義することだ。
そうした引き算が、
デジタルムービーになって、
できなくなっている気がする。
それは全部写りすぎているからだ。
カラーグレーディング(撮影後のデジタル現像)で、
それを追求できるならばやってもよい。
だけど現像に時間をかけられる仕組みは、
今のところない。
映画「いけちゃんとぼく」では、2時間映画の800カットが、
6時間しか与えられなかった。
30秒CMですら10時間はかけるぞ俺は。
「あとでなんとでもなる」という言葉を、
デジタル以降よく聞くようになった。
なんとでもなるのは「技術的には」が抜けている。
つまり現実的には天文学的な値段と時間がかかるが、
ということだ。
フィルム撮影は、あとでなんとでもならないから、
ここで捨てるべきもの、残すべきものを取捨選択していた。
その決断こそ、芸術だったように思う。
僕はフィルムの画質が好きで、
CM業界に来た。
キャリアの半ばまではフィルムを回せて大変幸福だった。
だけどデジタルシネマの普及に伴い、
めっきりフィルム現場を聞かなくなった。
ノスタルジー、懐古主義でフィルムいいぞおじさんに、
見られるのだろうな。
いや、そうじゃない、と理論武装しなければ、
デジタルよりコストが数倍かかるフィルム撮影を、
現場に導入できるわけがない。
デジタルは死が写らない。
フィルムは死が写る。
人間の物語には、フィルムがいいと思う。
最初のTwitterの写真に戻ろう。
左のデジタルは、今進行している時間そのもの、
右のフィルムは、今じゃない、ずっと過去の思い出に見える。
左のデジタルは、今もあるように見える。
右のフィルムは、今もうないものに見える。
どちらが映画だろう?
いつか死ぬ事がわかっていて、
それでも永遠を望んだ者、
人間の本質はどちらだろう?
2026年07月16日
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映像「素材」のファイル 対 仕上がりを イメージして シャッターを切る。
フィルムと同じ準備、段取り、気迫、想像力で撮っても、
仕上がりがフィルムと同じにならない理由を探しています。
やり方の違いはたくさんありますが、
仕上がりのことについて言語化された例は少ないですね。
---
イチオウ、 (まだ残る) カメラ月刊誌では
伝統的に 仕上がりを イメージして シャッターを切る。です
Log記録で あとはカラーグレーディング、よりは
AI補正 に おまかせ の短時間作業ですが。
現像に時間かけないとよくならないですよねー。
なにをどうすればどうなるかを予測して、
パラメータを動かせないと、
ランダム現像になってしまうし。