きのうの記事の続き。
なぜフィルムという死を写すものがよいのか。
それは、我々は元々死に魅了されているから、
と考えてよいのではないだろうか。
なにもF1レーサーが高速コーナーに躊躇なく突っ込むのを見て、
アイツは死に魅了されている、
という話をしているのではない。
私たちはみんな死ぬのが怖いし、
できればそのことを考えたくない。
できればそんなことのない明るいたのしいパーティーに、
ずっと参加していたい。
たとえばディズニーランドは、
そうした死の臭いをなるべくなくした「理想郷」だ。
だけどそれは1日しか持たない。
毎日通える?
もしお金が無尽蔵にあったら、
1か月通いたい?
僕は、飽きちゃうと思うんだよね。
うちの両親はもう老人ホームに入ってるんだけど、
あそこ、幼稚園みたいなんだよね。
体操という名のお遊戯をさせられてる老人たちを見ると、
幼稚園の、死から遠ざけられた、
架空の世界に生きさせられているような感覚を覚える。
あまり考えたくないが、死んだ時の葬式とかどうするんだろ。
あの敷地内ではやらずに、
どこか別のところでやるんだろうな。
つまり、
「死はない」「どこか別の世界の話である」
というふうになっていると思う。
「死んだ人はどこへいくの?」という根源的な問いも、
「ちょっとそこまで買い物にいっただけ」
という答えで誤魔化すのではないだろうか。
だけど、
ディズニーや老人ホームや幼稚園以外では、
死はそこにある。
近代に至るようになって、
死はなるべく遠ざけられてきたが、
死なない人はいない。
毎日誰かは事故で死んでるし、
この年になると僕の同期は3人死んでたりする。
人の死に立ち会ってない人でも、
ペットの死ぐらいは経験してるだろう。
ただ、いつか来る自分の死だけは体験してないだけで。
さて、死に魅了されるというと極論かもしれないが、
私たちは死というものに、
向き合わないふりをしている。
それってつまり、どこかで蓋をしてるわけ。
でも蓋をして忘れてないから、
死とともに生きている、ということが言えると思う。
僕は、
女子がキラキラしたものが好きな理由は、
生理があるせいだと思っている。
この話をできる女子が身近にいないので想像だけど、
毎月股間から血を流して、
生々しい体験を他人には見せてないから、
そこで生と死に向き合わざるを得ないのではないか。
だからそれが生涯ない男子にくらべて、
よりキラキラ(それは永遠の象徴だ)を、
求めてしまうのではないか、と考えている。
男子は怪我しない限り血は流さないので、
死や生を女子ほど身近に感じてないのではないか、
と僕は思うわけだ。
だから、理屈や理論のことを考えてられる余裕があるわけだ。
まあ、男女の身体論と思想はどうでもいい。
我々はつまり、
「死を見過ごせないもの」という意味で、
魅了されてるのではないか、
ということだ。
なぜ映画には危険が必要なのか?
なぜハラハラやワクワクドキドキが必要なのか?
なぜ失敗ギリギリから大逆転すると気持ちいいのか?
なぜボトムポイントは「死の予感」とよばれるのか?
なぜジェットコースターはたのしいのか?
それはすべて、
「安全圏から死を楽しむ娯楽」
だからではないか?
綱渡りをして、崖から落ちるかもしれない状況で、
映画を見る人はいまい。
映画はあくまで「想像の中の死を楽しむ娯楽」だ。
実際に綱渡りする人や、
F1レーサーや格闘家は、
「死を覚悟した人」「死を怖がらない人」ではない。
「ここまでは死なない」を知ってる人だ。
だから、彼らは安全圏でただ歩いているだけなのだ。
ただしミスると死ぬから、
慎重に集中しているだけなのだ。
その、集中と、死なずに終わった解放が、
彼らの快感なのだと思うよ。
登山家もそうだよねきっと。
つまり、私たちは死とギリギリに行くのが好きなのだ。
なぜチキンレースやロシアンルーレットがあるのか?
なぜ命綱なしでビルの外壁を登るクレイジーなやつがいるのか?
なぜスキーのジャンプ台から飛べるやつがいるのか?
彼らは「安全だ」と思ってるからできるのだ。
だから、「今回もビビらずに死ななかった」ことの、
快感を得ていると思うよ。
僕ら素人はその制御力がないから、
絶対安全圏で、死と隣り合わせの娯楽=映画を楽しむのだ。
小説版ウィザードリィのタイトルで好きなのやつに、
「隣り合わせの灰と青春」というのがある。
ウィザードリィというRPGは死んでも復活呪文で復活できるんだけど、
その際にごく低い確率で失敗して灰になり、
二度と復活しなくなりキャラが消えるゲームだ。
そのスリルが楽しいゲームなんだけど、
それをうまく表している名タイトルだと思う。
僕らはつまり死が好きなのだ。
なぜ廃墟や廃校が好きなのか。
なぜ古道具屋にある怖い人形が好きなのか。
なぜ滅びゆく昭和の街が好きなのか。
死と隣り合わせの生が、好きなのではないかな。
だから、デジタル映画がおもしろくない理由は、
死の魅了が足りないからじゃないかと僕は思う。
先日上げた、風見志郎のバイクの上での変身集、
目が離せないほどドキドキする。
それは、コケたら死ぬだろ、死なないにしても再起不能ありえる、
というギリギリがわかるからだ。
そしてそれは、魅了されてるといえる。
https://m.youtube.com/watch?v=vmxLZGtWUdk&ra=m
後半どんどん上手くなるからあまり怖くなくなるが、
最初の方まじで心配になる。
目が離せないんだよ。
合成でしょ?グリーンバックでしょ?
という最近のトム・クルーズのアクションよりも、
こっちのほうが魅了されるんよな。
トム・クルーズはバイクスタントやでかいアクションしてないで、
針の上に立つような小さなアクションをしたほうが、
絶対魅了できると思うけどね。
派手だけが映画じゃあるまい。
そういうわけで、
危険を避けて死なないようにしてきた人類は、
今また死に魅了されたがっている。
たぶん、死なないデジタルは、
アドレナリンが出ないんじゃないかと思う。
僕は、サーカスの音楽が少し悲しいのが好きなんよね。
バカ明るい音楽+サーカスはディズニーと同じよな。
2026年07月17日
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サーカスも死と隣り合わせですよね、綱渡りや巨大自転車、ライオンやトラ使いですとか……
死に肉薄すると相対して生命力や魂が輝くと思っているので、そういうキャラクターや場面の出てくる漫画が大好きです!
これもまた「安全圏から死を楽しんでいる」のかもしれませんが(笑)
キャラクターが死にかけて立ち向かう姿こそ生き生きと生命が鼓動する美しい瞬間だなあと感じますね……
現代社会を舞台にした話では、
死の匂いがあまりしないので面白くなくなりがちですね。
コンプライアンスでガチガチになりかかってるし。
そういう場合は「社会的な死」がモチーフになるのかもしれないですね。
裏アカバレみたいな「死」かなあ。
でもそれよりも、時代ものや戦争もののほうが、
死と隣り合わせになって面白く(=生が輝く)になるのでしょう。