2026年07月21日

【薙刀式】「言う」と「書く」のちがい

前提の違いを解像度高くやらないと、
この差を語れなそうなので、
まじめに書いてみる。


ラクダエンさん:
> 薙刀式とメジロ式、両者の根底的に流れる感性の違いは、「逐語的な『言葉選び』の有無」だよなー。
> メジロ式でできないとは思わないけど、しない前提で最適化されてる感じ。薙刀式はなんならそれしか考えてない

そうすね。
薙刀式は物語を「書く」ための配列と最初から明示していて、
少なくとも「言う」ことに関してはケアしていない。
(もちろん1モーラ1アクションは便利だから採用してるけど)

親指シフトは指が「しゃべる」と、
まるで言う系統のことを扱ってる表現だけど、
以下で議論するような、
言う/書くの違いを熟慮して名乗ってるわけではないと思う。
たんなる速いよ/気軽だよ、という言葉のあやだろう。



さて本論。

僕は、明確に言うと書くは違うと考えている。

大きくわけると、

 消えてしまうもの/残るもの
 非言語情報を使う/使えない

の2つが違っていて、
同じ日本語を使っているのに、
僕はまるで違うものだと考えている。


まず非言語情報の話から。


脚本のセリフを考えよう。
「お前はバカだなあ」としようか。

これを、
字義通り相手をバカにして言うことはできる。
また真逆に、
「あいしてるぞ」という代わりに言うこともできる。
何が違うか。

言葉の言い方つまりアクセントやイントネーションや間、
また表情、しぐさ、などで示す事ができる。
おだやかな表情で、頭を撫でて、
恋人に言えば、お前はバカだけれどそこがいいぞ、
という風な芝居を作ることができるよね。

また、冷たい性格の悪役が、縛られた主人公に、
微笑みながら頭を撫でて恋人に言うように、
「お前はバカだなあ」と言うこともできる。
ぞっとする怖いシーンになるわけだ。

お芝居というのは、
脚本にあるセリフ以外にも、
このような非言語情報を使って文脈のニュアンスを伝えることが可能だ。

お芝居ほどではなくとも、
現実の文脈では、
目線、表情、強弱、アクセント、
身振り手振り(こんなに大きかったとか)、
距離感(急に詰めるとか)や接触、
などで「言外のコミュニケーション」が取れる。

実は、喋りがうまい人というのはこれがうまい人であり、
喋る内容が上手い人のことじゃないんだよね。

極論、「どんな内容でもその人がいえばみんな従う」
だってありえる。
ヒトラーはそうだったし、
田中角栄はそういう人たらしだったそうだ。

先日某カフェでネットワークビジネス
(ネズミ講)の勧誘を隣でやっててずっと聞いてたんだけど、
イケてる感じのコミュ充が、
イケてない感じの地味なコミュ障をずっとはげましてて、
ビジネスの内容よりもこうしたことで騙されるのだなあ、
という「言外のコミュニケーションビジネス」
というのをずっと見ていた。

講演がうまい人、芸人みたいな何いっても面白そうな人、
場を盛り上げるのが得意な人、
モテる人というのは、
こうしたものがとてもうまい。
やりちんはスターになる、というのはあながち嘘ではない。
必要十分関係ではないが、相関関係はかなりあるね。

極論、何をいっても人を泣かせる事ができる女優がいた。
フランスの名女優、サラ・ベルナールの逸話で、
レストランのメニューを読み上げただけで、
その場にいた客は号泣したという。

言い方、トーン、場所の雰囲気、
元々好かれてるかどうか、
などもかなり「言う」には関係がある。




さて、「書く」は、これらの非言語情報が一切使えない。
だから、内容だけで勝負するしかない。
このため、書く時は、言う時とは異なる構造の日本語を使う。

わかるだろ?という省略をせず、
「結論を予測させる前提から始めて、
色々な論を展開して、
ありえる反論にはあらかじめ答え、
最終的に理屈で結論へいたる」
が必要なのだ。

女を口説くときには、書くやり方ではだめだ。
言うやり方でなければだめだ。
なぜなら彼女は契約内容ではなく、
あなたが好かれる人(言うことにまつわること)
かどうかを見ているからだ。



二つ目の話。

消えることと残ることでは、
圧倒的に書く方が不利だ。
のちのちまで残るからだ。

言うだけだと口約束なので、守らなくても最悪問題ない。
コミュニケーション力だけで切り抜ける、
そうした人もいるだろうね。

ビジネスでも口頭で受けずにメールでもいいから、
書面で残しとけというのは鉄則よね。

残るが故に、
文章というのは間違いがゆるされない。
構造の美しさも必要だ。
よれた構造は書き直すべきだ。


言葉選びの問題もある。
言う時なら勢いで誤魔化せる言葉も、
書く時には慎重になる。

非言語情報(声の大小やトーンや表情)が使えないぶん、
書く時には同音異義語など複雑な漢字や概念が使える。

音よりも目で分かる情報を入れ込むのが書くのは得意だ。
音で聞いたら墾田永年私財法は一切分からないが、
田畑を開墾したら永久に自分のものにできる法律だと、
目で見ればわかるよね。
(口頭では「どういう字を書くの?」と、書くのを聞くよね)

対比や逆なども、接続詞や段落わけで、
言うよりも鮮やかに示す事が可能だね。


で、そのスペック以上の本質的にちがうところ。


言う場合は、その場の相手に伝わりさえすればOKだ。
ところが書く場合は相手がいないのだ。
そのかわり、「全員が相手」なんよね。

講演会を文字起こししてもいまいちなときは、
その人が非言語コミュニケーションの達人である可能性がある。
言ってる内容がおもしろいのではなくて、
この人が喋ってること自体がおもしろい可能性が高い。

講演会の場さえ湧けばいいのではなく、
書く時は全ての人に向けて書く。
地方、都会、日本、世界に向けて、だけでなく、
過去と未来に向けても書く。

残るということは100年後、1000年後も強度をもつべきだ。

これに使える構造が、
三幕構造、すなわち序論本論結論や、
問題設定、展開、結論、という構造や、
対比や逆や、伏線や解消といった構造だ。

そしてこれはマクロ構造だけど、
ミクロ構造も重要で、
それが「次の言葉を選ぶ」なんよね。


それでようやくラクダエンさんの話に接続する。

これらのことを鑑みて、
次のミクロの言葉を選ばなければならない。

誤解を避けるのは当然として、
自分の言いたいこととバランスを取り、
かつマクロ構造とのつながりも考えなければならない。
意味の連続性、相手の期待や予想、
いつでも通用するように書けてるか、
などの複数の意識が同時に動きながら、
書かなければならない。


つまり書くというのは、
言うにくらべれば、
かなり難しい作業だと思う。

目の前にいない、イマジナリー相手にむけて、
構造化されたものを、言葉をうまく継ぎながらまとめる能力、
みたいなものが必要だ。

僕みたいな人間からすれば、
言うことよりこっちのほうが楽なのだが、
普通は書くことの方が難しいはず。

日常で言うことの方が遥かに多く、
書くとしてもそんなに多くを要求されない
(たいていは言うかわりの書くことレベルでOK)
だからだと思う。

書くことにはある程度慣れが必要で、
なおかつ慣れてくると型ができてくる。
で、それがある程度できると、
言うより簡単になってしまうのよね。
まあ、書いた方が速いか、みたいになる。


薙刀式動画で書いてることは、
言うよりも書く事に近いことだ。

慣れてない人は書くことが難しいため、
何度も書き直すことになるのだが、
僕は1発撮りで練習なしであそこまで書いている。
これはある程度書く型みたいなのができていて、
それらをちょいちょい応用すれば、
なんとかなるかー、などとやっているから。

で、それができてる人ほど、
あんまり直さなくてもよい原稿が書ける。
慣れとか技能レベルで、
どれだけこれまでやってきたか、
みたいなので決まるんよな。


ここまでが前提で、ここからが本論。


薙刀式は書く事に徹してて、
メジロ式は言う事に徹してる気がする。

メジロ式は言う事を圧縮していて、
音の圧縮については極限値に達している。

でもその、言葉の中身をどれにしようか、
書きながら選ぶのが書くことのような気がするな。


出来上がったものを流し込むのはメジロ式がよくて、
その場で1個1個つくる、
みたいな感覚は薙刀式な気がする。

作者の特性がそのまま用途に出ている感じ?


なので薙刀式は、
同時押しを使いながらも逐次式だね。
2モーラ以上には圧縮しない。
言葉のパーツが1モーラだからだ。
なんだかんだ「一本道」をつくろうとしている。

左右に同じものが置かれる冗長性も嫌う。
言葉はひとつであり、出口はひとつ、
みたいな感覚で使っているからだろう。

なんだろ、触覚で書いてる感覚をつくろうとしている。


メジロ式はそうは考えないため(だろう)、
何モーラだろうが塊として出した方が良くて、
左右にあれば塊(とくに漢語熟語)を出すのに便利じゃん、
という考え方のような気がする。

どちらが良い悪いではなくて、
「なにをしたいか」が違うということだ。


僕は全体を俯瞰しながら、
言葉を一つ一つ削り出したいんだろう。
それに特化した道具が薙刀式であり、
さらにIMEを飛び越えたい、
しかもそもそも最初から決まってる俺の意志に反しないように、
という思いがあって漢直を作ったわけだ。


ラクダエンさん:
> 「『ここにこの語を置いたら文章全体にどう影響する?』っていうシミュレーションが逐語的に走る』
これを「文章と格闘する」とか言うんじゃないのか。

そうすね。

そして文章と格闘することは、
次の文がたった一通りしかありえないと確信したとき、
出口が決まると思われる。

僕は先の記事で、
文章がうまい人の条件に、
次の文がたった一通りしかない人、
のように定義したけれど、
それを見つけるために文章書きは試行錯誤するはず。

(毎回これをやるとしんどいから、
自分の文体=型を使うんだろう)


というわけで、
メジロ式の自由文動画を見て思ったことは、
「文章の大局観が崩れそう」ってことかなあ。
あくまで自分が使うとしたら、
というイメージだ。

そうではないよ、というメジロ使いがいれば、
ぜひ見せてほしい。
もちろんオチまで書くやつをだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック