(ここでいう創作打鍵とはコピー打鍵の対義語で、
自由に自分の考えを書く、ブログやエッセイやメールも含みます。
いわゆる創作=小説など以上に広範囲の、
次に何を書くか分らないものを指します)
何が違うんやろ、という議論。
僕は、正解の有無であり、
もっというと、覚悟の有無という話をしたい。
コピー打鍵には正解がある。
他人の書いた文章を写すので、
その差分があれば間違い。
なければ正解。
「間違いを0にしつつ、なるべく速く書くゲーム」だと思う。
だけど創作打鍵には正解がない。
何が正解か、誰も決められない。
決めるのは、自分だ。
つまり、創作打鍵とは、
「私が正解を出すゲーム」であると言える。
「間違いを0にしつつ、なるべく速く書くゲーム」とは全然違うわけだ。
私は、何を正解として、何を間違いとするのか。
それすら決めなければならない。
そこに指針はなく、
自分が指針を決めなければならない。
だけど創作文章を書く者ならば、
誰もが知っている。
正解はひとつだ。
勘でたどり着くしかない。
ベストの「次の文」が必ずある。
そこにたどり着くために、試行錯誤をしたり、
勘を磨くのだ。
手癖で処理して、セカンドベストで前に進んでもよい。
とにかく、創作打鍵は、
終わりまで書いてやっと全部だ。
コピー打鍵が適当な時間でおしまいになるのとはわけが違う。
なぜなら、終わりまで書くことで、
書いた者は責任を負うからだ。
つまり、創作打鍵とは覚悟である。
私はこれを正解だと定義する、
という覚悟だ。
コピー打鍵に覚悟も責任もない。
合ってるか合ってないかだけ見てればいい。
それは子供のやることで、
責任の発生する大人のやることではない。
だから「ゲーム」なんだよな。
発言そのものは責任で、覚悟だ。
何が正解かを自分で決めるのだ。
文章を書き慣れている人、
文章力がある人というのは、
その正解に速くたどり着ける人ではない。
「速く覚悟できる人」と言ってもよい。
「そうとしか言えない」なら、
そうとしか書けない。
それが拙劣でも、文が前に進むならば、
それを甘んじて受け容れる。
それでも少しでも良くなるなら、
ぎりぎりまで粘る。
そういう覚悟をしている人だ。
覚悟を問うゲームを、
創作打鍵はしている。
すでにある正解に合ってるかどうかのゲームはしていない。
次の正解をつくるゲームをしている。
全く別物ですよ、
というのは簡単だけど、
全然違うというのを言語化してみた。
タイピングゲームを100万回やっても、
覚悟をつくることは身につかない。
覚悟が身についている人は、
正解が他にあることの意味が分らない。
それをつくることをしているのだから。
ということで、両者は常にすれ違う運命を持っている。
もちろん、自転車に乗るのに、
一定の練習は必要だ。
でも乗れるようになったら、
どこ行くか、何を運ぶか、
考えるようになるものだ。
そのあたりで、練習はしなくなっていいのではないか。
僕は、タイピングゲームをやり続ける人は、
そういうことと関係ないゲーマーだと思っている。
それはそれでたのしんでいいけど、
僕は興味がないだけだな。
僕は「前の正解」には興味がない。
僕は「次の正解」をつくるために、
薙刀式をつくったし、そう使っている。
そしてキー配列という効率は、
正解を出しやすいこと、
正解を出すルートを邪魔しないこと、
が求めるべきことかもしれない。
2026年08月09日
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