2026年08月03日

【薙刀式】大岡は賢いから書けると良く言われるが

逆なんじゃないかと思う。
書いたから、賢くなったんじゃないか、
って思うんだよ。


先に賢さというものがあり、
それがなんかグルグル回って、
書くものを吐き出す。
それを手が記録する。
そういうことじゃないと思うんだよ。
僕がやってきたことを考えるとね。

まず書く。
書いたことをベースに次を考える。
書いたことは分っていることで、
書かれていないことが分っていないことだ。
だから、書かれていないことを、
もっと考えることになる。
調べてもいい。
他人がどう考えているかを調べてもいい。
ちょっと賢くなる。
また書く。
以前書いたことよりも賢いことを書ける。
そのループで、
どんどん賢くなっていく。

賢さは不変だろうか?
IQって一定になっていて、
生涯変わらないのかな?
経験や知識がふえたりしたら、
IQは更新されないのかしら。

賢さは変動すると思う。
更新されると思う。

僕は子供の頃から賢い子と言われて、
現在に至るのだが、
一度も自分を賢いと思ったことはない。
いつもレースを走っているような気分かな。
賢くなり続けている、
という自認だなー。
それは、書くことが一番早い。
もちろん、インプットをしてもよいが、
インプットだけでは賢くならない気がする。
それを使えないと賢さじゃないと思う。
書けるのか、考える材料に出来るのか、
それを使ってなにか出来るのか、
前は出来なかったことが今出来るようになったのか。

その賢さを微分していく感覚が、
書くことじゃないかと思うわけよ。
その結果、また自分が変容していく。
それが書くことじゃないかと思っている。

複雑なことを書ければ書いたほど、
次はもっと賢くなる。
その繰り返しと、
柔軟性が、知性じゃないかしら。


言うだけじゃだめかな?
脳内処理可能情報量が少ないから、
無理じゃないかな。
言う以上の複雑なことを整理して、
腑分けする作業を通してしか、
さらに知性は上がらないんじゃないかしら。
つまり限界いっぱいしないとダメなんじゃないか、
って思っている。
筋肉と同じでね。


ということで、僕は今日も書き、日々賢くなってしまっているのだ。
たいしたIQじゃないかもしれないがね。笑
posted by おおおかとしひこ at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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