もちろん、視覚でも聴覚でもないだろう。
あえて言うなら、触覚?
ストーリーが入った状態だから、脳内触覚みたいな?
もちろん、「これまでのあらすじ」自体は、
文字情報なら視覚だろうし、
ナレーターの言うことなら聴覚だろう。
でも、それが我々に入った状態は、
どういう状態か?
見た、という状態でもないし、
聞いた、という状態でもないと思う。
「ストーリーに触って、
その手触りが分っている」状態に近い、
という意味で、
僕は触覚である、という言い方をとりあえずしてみることにする。
これまであった出来事。
なぜそんなことをしようと思ったのか。
それに対して○○はどう思ったのか。
次にやろうとしていること。
それが実はこうなんじゃないかという予想。
これは「ストーリーという感覚」でしかなくて、
視覚でも聴覚でもないよね。
味覚でも嗅覚でもないから、
うーん、触覚、というしかないという。
役者なんかは「コンテキストが入ってない」「入ってる」
みたいなことがあるが、
触覚に近い感覚よね。
これは、「ストーリーというのは頭の中でどうなっているのか」
という感覚の話をしている。
一枚の写真になっているのはイコンという写真記憶だ。
これは場面の記憶のようなものであり、
動かないものであろう。
静止したものはストーリーではない、
ということは何度かここで議論している。
一枚じゃなく、何枚かあると、
その間の補間が働いて、
何かしら動きのような感覚があり、
それが「ストーリーという感覚」になると思うのだが、
視覚も聴覚もありつつ、
「こういう感じ」という触覚なんじゃないかなあ、
と思ったわけだ。
これは、
「今あるストーリーはこういう感じだが、
こういうものにした方がいいんじゃないか」
というときにも、感覚的に判断するのに使うよね。
脚本を書ける人というのは、
この感覚が鋭敏で、
しかも長いこと持続して、
それを言葉に出来る人だ。
脚本を読める人というのは、
言葉だけで書かれたそれを、
この感覚に翻訳して、
感覚でストーリーの中を歩ける人のことである。
で、その解像度というものが人にはあって、
ビフォーアフターのような2枚しかない人から、
連続体として認識できる人、
ある一点しか見れない人からマルチに見れる人、
その作品内でしか見れない人から、
作品の外の相対的な位置まで見れる人、
などのように解像度が変動するんだよな。
触覚、としか言いようがない、
このストーリーそのものの感覚。
これを鍛えることでしか、
脚本力は上がらないよね。
「この感覚じゃあつまらんなー」
「この感覚ならおもしろいだろ」が、
すべての基準になるわけだからね。
2026年08月27日
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