いや、勧善懲悪とか言うじゃないですか、
そんなわけないでしょ、
物語というものは正義と悪の相克でしょ、
などと思ってしまうよね。
でも悪と戦う映画はない。
悪人と戦う映画になるのだ。
これはつまり、
映画がもともと演劇から出発していることを考えれば分る。
三人称だから、
「戦う相手は、具体的な誰か(演者)」
ということになるわけだ。
彼または彼女は、
具体的な人物であり、
「悪」という概念ではない。
もやもやした黒い炎である、「概念としての悪」を倒すのはファンタジーならありえるが、
具体的な役者が演じる「悪役」を倒すのが、
映画というものである。
ということは、
「その人は、その人の事情で動いている」
というわけであり、
「その人は、自分のやっていることを悪であると自覚している」
ことになる。
(自覚していない悪役というパターンももちろんある)
なぜその人がそうなったのか、
なぜその人が主人公を邪魔してくるのか、
などの、
「個別の事情」と戦うのが、
映画という三人称的な物語である。
だから、名悪役をつくると、
映画は面白くなるわけだ。
純粋な悪という概念ではなくて、
「悪人というキャラクター」をつくるチャンスが出来るからね。
「どういう魅力的な、その個人としての悪をつくる?」
という方向になってくるだろうからだ。
その人の中で、
悪はどういう理解になっているのか?
その人の中で、
正義はどのような理解になっているのか?
主人公とはどう違うのか?
世間一般の解釈とはどう違うのか?
そのへんの「差異」をつくればつくるほど、
落差が生まれ、
坂道の勾配がきつくなる。
だから物語は加速しやすくなるだろうね。
悪役は映画のハイライトだ。
どういうキャラ立ちの悪役かが、
映画そのものの価値を決めることすらある。
ダースベイダーがいなかったら、
スターウォーズは成立していなかっただろうね。
先日見た「狩人の夜」は、
あの偽宣教師がいなかったら、
成立していない。
悪役を魅力的に描くには、
悪という抽象的な役割を負わせるのではなく、
「その人個人の事情」をうまくつくれるか、
ということに尽きるかもしれない。
だから、主人公は悪と戦わない。
主人公は、「その悪い人」と戦うのだ。
ターミネーターシリーズが成功したのは、
スカイネットを具体的なターミネーター
(シュワルツネッガー、T1000)という「悪役」にできたことであり、
その後失敗したのは、
「スカイネット」を擬人化できなかったからだ。
3か4か5あたりで、
水色のハゲのCGが出てきたけど、
あのキャラを人間に演じさせるべきだったよな。
人工知能は人に演じさせる悪役になった時点で、
話が面白くなると思うよ。
人と人のドラマが映画だからだ。
2026年09月03日
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