2026年09月03日

悪と戦う映画はない

いや、勧善懲悪とか言うじゃないですか、
そんなわけないでしょ、
物語というものは正義と悪の相克でしょ、
などと思ってしまうよね。

でも悪と戦う映画はない。
悪人と戦う映画になるのだ。


これはつまり、
映画がもともと演劇から出発していることを考えれば分る。
三人称だから、
「戦う相手は、具体的な誰か(演者)」
ということになるわけだ。

彼または彼女は、
具体的な人物であり、
「悪」という概念ではない。
もやもやした黒い炎である、「概念としての悪」を倒すのはファンタジーならありえるが、
具体的な役者が演じる「悪役」を倒すのが、
映画というものである。

ということは、
「その人は、その人の事情で動いている」
というわけであり、
「その人は、自分のやっていることを悪であると自覚している」
ことになる。
(自覚していない悪役というパターンももちろんある)

なぜその人がそうなったのか、
なぜその人が主人公を邪魔してくるのか、
などの、
「個別の事情」と戦うのが、
映画という三人称的な物語である。


だから、名悪役をつくると、
映画は面白くなるわけだ。
純粋な悪という概念ではなくて、
「悪人というキャラクター」をつくるチャンスが出来るからね。
「どういう魅力的な、その個人としての悪をつくる?」
という方向になってくるだろうからだ。


その人の中で、
悪はどういう理解になっているのか?
その人の中で、
正義はどのような理解になっているのか?
主人公とはどう違うのか?
世間一般の解釈とはどう違うのか?

そのへんの「差異」をつくればつくるほど、
落差が生まれ、
坂道の勾配がきつくなる。
だから物語は加速しやすくなるだろうね。


悪役は映画のハイライトだ。
どういうキャラ立ちの悪役かが、
映画そのものの価値を決めることすらある。
ダースベイダーがいなかったら、
スターウォーズは成立していなかっただろうね。

先日見た「狩人の夜」は、
あの偽宣教師がいなかったら、
成立していない。

悪役を魅力的に描くには、
悪という抽象的な役割を負わせるのではなく、
「その人個人の事情」をうまくつくれるか、
ということに尽きるかもしれない。


だから、主人公は悪と戦わない。
主人公は、「その悪い人」と戦うのだ。


ターミネーターシリーズが成功したのは、
スカイネットを具体的なターミネーター
(シュワルツネッガー、T1000)という「悪役」にできたことであり、
その後失敗したのは、
「スカイネット」を擬人化できなかったからだ。
3か4か5あたりで、
水色のハゲのCGが出てきたけど、
あのキャラを人間に演じさせるべきだったよな。
人工知能は人に演じさせる悪役になった時点で、
話が面白くなると思うよ。
人と人のドラマが映画だからだ。
posted by おおおかとしひこ at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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